第5章 転換期 1989→2001 平成元年~平成13年3月

第1節|CAD/CAMシステム「CATIA」の導入

 1989(昭和64)年1月7日、激動の時代を生きた昭和天皇が崩御。翌1月8日より皇太子明仁親王(今上天皇)が即位し、平成の新たな時代が幕を開けた。同時期、中国では天安門事件が起き、ベルリンの壁が崩壊して東西ドイツが統一され、湾岸戦争が終結するなど、世界的にもパラダイムシフトが起きた。大和木型製作所も、時代の変化という荒波にどう対応していくかが問われていた。
 先進のテクノロジーが採用される自動車業界では、ますますコンピュータ化が進み、NCマシンを導入していた大和木型製作所でも、時代が変わってすぐに、3次元データに対応するべくフランス最大のソフトウェア会社ダッソー・システムズ製CAD/CAMシステム「CATIA」を導入する。
 CAD/CAM導入は、他のシステム候補も含めて慎重に検討された。当時の日本では別のシステムが主流であり、ダッソー・システムズ製のCATIAは高額で、かつNC用のデータを作成するにも難儀したため、導入に際しては判断に迷うところがあった。しかし、すでに輸出の花形となっていた自動車産業は、世界規模の産業である。決定にあたっては、「世界でやっていくには世界で使われているシステムを入れるべきだ」という三郎や古澤の判断があった。この判断は極めて正しく、CATIAは今に至るまで世界のスタンダードであり、その後も様々な分野の仕事で威力を発揮した。
 単なる木型屋の域で終わるか、さらなる発展を目指していくのか・・・。分岐点となる大転換期に導入されたCATIAは、後のダイワ・エム・ティの屋台骨を支えるシステムとなったのである。

 

 

第2節|バブル崩壊と社内の意識改革

 相次ぐ設備投資により短納期での納品達成、受注増と順調に業績を伸ばしていた1991(平成3)年、大和木型製作所では2台目のモデル加工機NCマシン5軸を導入した。しかし、日本はこの頃から景気が大きく後退し始める。いわゆるバブル崩壊が始まったのだ。自動車産業も例外ではなく、輸出の不振も重なり生産縮小を余儀なくされた。自動車関連の発注が減少する中、持てる力を別業種へ活かそうと、三郎たちは横展開を模索し始めた。住宅設備機器や重機などの分野に仕事が広がったのは、この時期からである。現場では、新たな業種への参入は苦労もあったが、決められたルーティンから解き放たれて、経験をアイディアに転換する「ものづくりの原点」へと回帰する楽しさもあったという。1996(平成8)年には、IMAGE WARE(米)製CADシステム「SURFACER」を導入し、デザイン設計から関わる仕事も受けるようになっていった。
 一方、業務の拡大に合わせて部門や人員が増え肥大化した組織は、バブル崩壊で仕事の量や質が変わると、部門間の風通しの悪さから来る非効率的な部分が目に付くようになる。先に総務のIT化を図った惠子は、続いて経理や社長の仕事を学ぶにつれ、社内全体で作業の精度を上げて効率化を図らねばならないと、強く感じていた。そのためには、部門の壁を越えた情報共有の場が必要であると、幹部クラスの定例会議を提案する。しかし、職人気質揃いの現場では、自分たちの部門の仕事を全うすることが一義である。「大切な1時間を会議などに費やす必要はない」と、情報の共有についての理解がなかなか得られない環境であった。
 製造業における生産管理業務の効率化では、「無理、無駄、ムラ」は最も排除しなければならない要素である。惠子はその点を粘り強く説き、社長以下幹部クラスの社員による、月1回の定例会をスタートさせた。最初は手探りであったが、回を重ねるごとに情報共有による仕事の効率化が体感できるようになると、バブル崩壊後の度重なるピンチにも、全社的に何とか乗り越えようという力を生みだせる会議となっていった。この時に生まれた、部門間の情報共有に対する意識は、現在のダイワ・エム・ティの組織内の風通しの良さと生産性向上という成果につながっている。

 

第3節|第2東名整備計画

 工場が立地する大淵周辺では、この時期、ある計画が持ち上がっていた。第二東海自動車道横浜名古屋線、いわゆる「第2東名」の整備計画である。1991(平成3)年12月に、長泉沼津IC – 豊田東JCT間整備計画が発表され、1993(平成5)年11月には施工命令が下りた。これにより、大淵工場一体が整備対象区域にかかることが判明。三郎は、大型の設備投資をしたばかりの工場を、一時的でも営業を止めて移転することには、断固として反対の姿勢を示すのであった。工場を移転しないことを前提として強気の三郎に対し、富士市は調整役として惠子を頼った。惠子は三郎の意思は尊重しつつも、最終的には移転せざるを得ないことを念頭に、代替候補地を丹念に見て歩いた。富士市と三郎の間に入っての調整役として、粘り強い交渉がこの後数年間続いたのである。
 三郎はこの時、移転に反対しながらも、いつどのような形で惠子に会社を引き継ぐかを考えていた。大きな設備投資の直後に、右肩上がりだった受注高はバブル崩壊で大きく減少。引き継ぐにあたっては、負債という荷を軽くするために会社を縮小すべきではないかと思っていたふしがある。しかし、惠子は「小さくすれば先細りして仕事が取れなくなる」と三郎の考えによる将来像を危惧。逆に積極策を一つひとつ丁寧に説明し、三郎を説得した。
 そして、ある日、三郎と惠子は市が新たに提案してきた茶畑に立った。その茶畑は同じ大淵でも山の上の方にあった。広々と開けた土地の向こうには堂々たる富士山がそびえ立っている。2人は何ともいえない爽快感に包まれた。
「移るならここだね」惠子はそう三郎に告げた。
 業績が落ち込む中、大きなチャレンジを心配する三郎を説き伏せ、敷地面積が倍近くなる広い土地への工場の新築移転を決意。そこからは、惠子を中心に移転に伴う様々な変革が計画されていくのであった。

 

第4節|新世紀へ・・・工場移転と新生ダイワ・エム・ティ

 2001(平成13)年1月、新工場への移転を目前に三郎の妻芳江が他界する。創業者和久田八十松の三女として生まれ、事業を継いでいたであろう兄の田鶴雄を戦争で亡くしてからは三郎を婿養子に迎え、三郎と会社の双方を陰で力強く支え続けた生涯であった。
 同年3月、現所在地である大淵字庚申松(大淵539)に新工場が完成。移転を機に、大和木型製作所は、社名を株式会社ダイワ・エム・ティへと改めた。MT(エム・ティ)とは「マスタリング・テクノロジー」のことである。「木型」という言葉をはずし、「商品の元となるデザインモデルや型を作る会社」であるということを、社名で宣言したのだ。惠子は移転に伴い、社名の変更、大型の設備投資や新たな部門の立ち上げなど、様々な改革の設計図を描いていた。
 バブル崩壊により、日本の産業が厳しい時代に向かう中、逆に積極策を打って出た新生ダイワ・エム・ティ。大きな荷を背負っての旅立ちとなったが、雄大なる富士山に見守られながら、この後も大きな挑戦を続けていくのである。

 

 

COLUMN|ダイワ・エム・ティを陰で支えた「今泉小町」

 社史の表には出て来ないものの、ダイワ・エム・ティ発展に大きく貢献した人物がいる。和久田芳江である。芳江は、1923(大正12)年1月、和久田家の三女として生まれた。幼いころから新しいこと、美しいものが好きで、映画や宝塚の世界に憧れていた。芳江自身も華やかな美人と評判で、今泉時代には「今泉小町」と呼ばれて、地元の駅にポスターが掲示されたほどであった。独身時代には、東京の親戚を頼って上京し日本橋三越に勤めるなど、当時としては発展的で行動力のある女性だった。

 その芳江が大きな影響を受けていたのが、聡明で先見の明を持つ兄の田鶴雄であった。そして、田鶴雄の親友であった和智三郎に対しては、「この人は何か大きなことをやり遂げそうだと思った」と、後年、娘の惠子に語っている。ほどなく2人は婚姻。和久田の姓と、会社を継ぐこととなる。

 結婚後、芳江は長い間社内の総務・経理業務に携わり、社業を支えた。目の回るような忙しさの中、会社の発展と共に兄譲りの社交性と先見の明を発揮。特に不動産に対して目利きがあり、1970(昭和45)年移転時の工場建設用地となる大淵の土地(大淵字市十窪)をはるか前から取得していたことは、業務拡張への大きな支えとなった。三郎はどちらかと言えば堅実で守りに入りがちな性格、一方の芳江は、自ら「私はイノシシ」と言うほどの行動力を持つチャレンジャー。「豪気で度胸があったのは芳江の方だった」と、知る者は皆、口をそろえる。

 晩年は、趣味の日本画の大作を次々と制作。その作品も各方面から高い評価を受けるほどの腕前であった。後に、惠子が作品集としてまとめ、発刊した。

 惠子が述懐する。「母は病床時に、私にこんな言葉を残しました。『何も咲かない寒い日は、下へ下へと根を伸ばせ。やがて大きな花が咲く』ある大企業のリーダーの方が、常に心に刻んでいた言葉だそうです。会社を継ぐ覚悟を持って戻ってきた私に、『商売は良い時、悪い時がある。苦しい時こそやるべき努力を惜しむな』という経営者としての心構えを、最後の最後まで教えてくれようとしていたのだと思います」

「守りに入らず攻めること」
「小さくまとまらずに可能性にチャレンジすること」

 内助の功という言葉があるが、節目節目の大きなチャレンジを推進してきた芳江の牽引力は、ダイワ・エム・ティが100周年を迎えるにあたり、なくてはならない存在だったのである。

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