第3章 変革期 1948→1970 昭和23年~昭和45年

第1節|商号変更 株式会社大和(だいわ)木型製作所へ

 1948(昭和23)年、ケガをきっかけに体調を崩した先代の八十松に代わり、三女芳江の婿養子として和久田家に入った三郎が、株式会社大和製作所の代表取締役社長に就任する。病床にあった八十松は、1951(昭和26)年3月13日に64歳でその生涯の幕を閉じた。
 1956(昭和31)年、株式会社大和(やまと)製作所は、株式会社大和(だいわ)木型製作所へと商号を変更した。理由は定かではないが、戦艦大和の雄姿にあやかって名付けられだろう「ヤマト」の名称が創業当時の造船業を想起させることや、当時、市内に同名の会社が存在していたことが一因ではないかと推察される。三郎はこのタイミングで社名を変更し、「木型」で勝負する会社であることを明確に宣言したのであった。
 三郎は当初、八十松時代からの事業を引き継ぎ、株式会社小林製作所の協力会社として、製紙機械用の木型製作を中心に業務を行っていた。しかし、親友の田鶴雄が繰り返し語っていた「これからは自動車と英語の時代が来る」という言葉は、常に頭の中にあった。事実、戦後の復興から高度成長時代へと時代が大きく移り変わる中、モータリゼーションの勢いは凄まじく、この頃には、富士市の旧日産自動車吉原工場(完成:1943(昭和18)年)も創業を活発化させていた。活気付く近隣の大型自動車工場を前にして、三郎は自社の木型製作技術が必ず自動車産業にも役に立つことを確信していたに違いない。

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第2節|製紙産業から自動車産業へ

 大和木型製作所では、製紙機械用木型の製作と並行し、日産自動車吉原工場との取引を開始。自動車製造用シリンダーの木型製作を請け負い、業務を拡張していく。当時吉原工場では、ダットサン乗用車、ダットサントラックが大量生産されていた。
 1958(昭和33)年、日産自動車は、世界の3台自動車レースの一つで、特に過酷な長距離耐久レースとして国際的に高い評価を得ていた国際自動車レース、「オーストラリア1周モービルガストライアル(豪州ラリー)」にダットサン2台をエントリー。参加車の半数しか完走できない過酷なレースで、吉原工場の精鋭が駆るダットサンは見事2台とも完走したうえに、1台はAクラス優勝という快挙を成し遂げた。大和木型製作所では、吉原工場の協力会社として凱旋車を迎える歓迎行事に合わせ、大きな祝い看板を掲示した。
 この快挙は日本車の品質、耐久性の高さを世界に証明することとなり、いよいよ国内における自動車熱が高まっていく。大和木型製作所も注文が切れない時代に突入。何年もの間、来る日も来る日も自動車製造機械用の木型づくりに追われるようになる。製紙業界も活況を呈しており、当時を知る社員によれば「連日、おもしろいように仕事が入ってきた」時代であった。もはや、家内制手工業では注文をさばききれなくなるところまで、仕事量は増えていったのである。

 日産吉原会 組織図(日産自動車吉原工場社史より)
 昭和47年に発足した「日産吉原会」は、日産吉原工場に協力する外注業者の、構内での労働災害防止と安全衛生管理の向上を図るために組織化されたもの。昭和31年頃から取引のあった大和木型製作所は、工具部会の一員として名を連ねている。

 

 

第3節|モータリゼーションの大海原へ

 日産吉原工場の協力会社ではあったものの、作っていたのはもっぱら機械用の木型。自動車本体への参入はなかなか叶わずにいた。当時から自動車産業は最先端技術が採用されており、自動車本体の製造に関わるには、それまでの知識や経験だけでは到底対応できなかったのである。
 そこで三郎は1966(昭和41)年、いすゞ自動車との取引で、早い時期から自動車本体の木型を扱っていた沼津の斉藤木型に、研修のために社員を2名派遣する。使われている用語一つから始まって、自動車業界特有の、線図の読み方から数値化してモデルを製作する作業に至るまで、派遣された社員は大変な苦労を重ねて自動車本体の木型づくりを学んだという。
 翌1967(昭和42)年には、社員2名をいすゞ自動車藤沢工場に半年間修行に送り出し、いすゞ自動車とのパイプも作った。当時、斉藤木型やいすゞの藤沢工場に実際に研修に出向いた市川清作は、当時をこう振り返る。「斉藤木型には自分が24歳くらいの時に半年間くらい通いました。社長が毎日沼津まで送り迎えをしてくれて。捨て型というのもそこで覚えました。いすゞは寮に入ってみっちり勉強しましたよ。いすゞからのオーダーは線図で来るんです。線図から数値を拾って数値表を作って・・・。もちろんすべて手作業です。ゼロコンマ台で拾わないとモデルに起こした時にズレますから、とにかく神経を使う難しい作業でした」
 自動車本体の木型を扱えるようになると、ますます仕事量が増えた。当初の取引には、八千代田産業という商社が間に入っていた。しかし、モデル製作上、図面の話になると商社がいちいち間に入るのでは効率が悪い。そのうちだんだんとメーカーのキーパーソンと直接やりとりするようになっていく。1968(昭和43)年には、日産自動車のティア1(一次請け)である日産車体との取引が始まり、いよいよ本格的に自動車本体の木型製作へと業務をシフトしていった。自動車はマスターモデルを作るとそれに付随するさまざまなモデル、たとえば“ならい”モデルやスポッティングモデル、付け合わせモデル、検査治具などがセットで依頼されるため、一気に仕事量が増える。しかもそのほとんどが短納期の仕事であった。
 大和木型製作所の丁寧で熱心な仕事ぶりは評判となり、雪だるま式に仕事の依頼が舞い込むようになる。三郎は新たに工場長を据え、従業員を20名程度まで増員して注文に対応しようとした。しかし、元々住宅地として開発された今泉の地での事業拡張は難しく、1969(昭和44)年にはとうとう工場の新築を決断、大淵に広々とした候補地を見つけ着工したのであった。
 好景気に沸く日本では、様々な工業製品が生み出され、それとともに公害が社会問題となっていた。事業の大きな柱であった製紙業界においても環境汚染が深刻化し、製紙機械の木型の注文数にも陰りが見え始めていた。この時期の大和木型製作所はまさに、木型屋として家内工業の規模のままでいるか、自動車業界の活況に乗り業務拡張を目指すかの分水嶺に立っていたといえよう。同業者からは投資を危ぶむ声もある中、三郎が思いきって自動車産業へと事業の舵を切ったのは、田鶴雄が残した「これからは自動車と英語」という言葉に背中を押されたからなのかもしれない。

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